バリ島 (Bali) は、東南アジアのインドネシアに属する島。西にジャワ島、東にロンボク島と一列に島が並んでいる一部。バリの海岸からジャワ島が見える程(バリ海峡の最も狭いところは3kmほどである)近い。 言語はバリ語であるが、放送などは公用語のインドネシア語であり、子どもたちは小学校入学前からこれを学ぶため、老人などを除き、インドネシア語会話に不自由がない。それどころか、バリ語は敬語表現が複雑かつ厳密なため、使い慣れないランクの敬語を使わなければならない相手とは、あえてバリ語を避けてインドネシア語を使うこともあるという。 宗教はバリ・ヒンドゥーが有名だが、イスラム教(回教)信者の増加が著しい。キリスト教徒もいる。
歴史
ジャワ原人の故地であるジャワ島に隣接し、ドンソン文化の影響を受けた銅鼓が発見されるなど、古くから人が住み稲作を中心に文明が開けていたと推定されるが、4世紀に移動して来たヒンドゥー教に属する人々が来てから大きく発展した。 9世紀頃から独自の王朝を築いていたことが資料から窺えるが、常にジャワ島の政権の影響下にあり、1342年、マジャパヒト王国に侵攻された後はその支配下にあった。16世紀にマジャパヒト王国が、イスラム勢力により衰亡すると、ジャワ島から独立し、ゲルゲル王朝が成立し、東進するイスラム勢力に対抗した。17世紀になると、 オランダ東インド会社を始めとしたヨーロッパ勢力の進出が見られたが、これと言った特産品のないバリ島は植民地統治上特に重視されず、各地方の王族の支配下で、バリ人による自治を保った。 19世紀、 帝国主義的風潮の下、オランダはバリ島の植民地化を進め、各地の王家を武力により支配下におき、1908年バリ島の名目的支配者であったクルンクン朝を滅ぼし、全土を植民地とした。オランダは、各地の王族を通した間接支配を行い、灌漑・道路等農業設備を整理しアヘンやコーヒーと言った商品作物の栽培を奨励する一方で、奴隷制の廃止、学校の設営、風俗改革(裸身の禁止)等ヨーロッパ的近代化政策も実施した。また、この当時、バリ島の風俗がヨーロッパに紹介され、それに魅せられたヨーロッパの芸術家が来島、現在の観光の目玉である音楽(ガムラン等)、舞踏(レゴン、ケチャ等)、絵画の様式が確立する。
太平洋戦争時、バリ島は日本の占領下にあったが、終戦後、オランダの再支配に対して抵抗した。殊にゲリラ部隊を率いて壮烈な戦死を遂げたグスティ・ングラ・ライ(Gusti Ngurah Rai)中佐は、英雄としてその名を国際的な玄関口であるングラ・ライ空港(デンパサール国際空港の現地正式名称)にとどめている。スカルノらの活躍により、蘭領インドネシアは1949年オランダから独立し、1950年バリ島はインドネシア共和国に参加する。参加当初から、宗教問題が最大の問題であったが、インドネシア政府の繊細な配慮の下(観光による外貨獲得が最大の目的であった可能性は大であるが)、独自の文化を維持しつつ世界的観光地へと成長した。
農業
- 水利、灌漑
島は、以前は砂漠の島だったと言われ、島の中央の山に湖があるものの、水は全て北側に流れて行き、南側は乾燥していた。この湖の水をトンネルを掘って南側に導き、この水の流れを計画の元に分岐しながら水量を計算通りに振り分けて行き、島の南側全体を緑にあふれる土地に改造した。 この水を管理する技術は今も使われており、島は食糧が豊富に育つ。例えば米は二毛作から三毛作が可能で、そのため人々は余裕を持った生活をすることができて、農民は朝夕それぞれ2、3時間働くと、その日の残りは絵画、彫刻、音楽、ダンスなどの芸術的な創作活動に当てられ、バリは芸術の島として世界的に知られている。バリ舞踊、その伴奏にも使われるバリガムラン、舞踊芸術のケチャが有名である。
民俗、宗教
祭事、儀礼
また、宗教的な活動にも多く時間を使われ、毎日小さな島のどこかで祭が行われていることでも知られる。現在、観光的に知られたため観光の事業を目的とした人々がジャワ島から移って来ておりイスラム教徒が増えているが、伝統的なバリ人はヒンドゥー教に属しバリ・ヒンドゥーと呼ばれる独特な伝統を伝えている。
生活
バリ人は非常に精神的に満足し進歩した人々で、西洋的な生活にはあまり興味を持たない。
むしろ物質文明・近代文明のしがらみに疲れた西洋人や日本人がバリに長期滞在しバリの文化を学んで行くのを誇りにしている。数ヵ月から数年バリに滞在する西洋人や日本人には、絵画、音楽、彫刻、ダンスなどを学んでいたり、自分達独自の芸術的な活動をしている人々が多い。
(詳細は「優しいバリ 私が「わたし」に返る島(姿月あさと著)」参照)
観光
芸能・芸術の島として世界的に有名で、かつ、早くからビーチリゾートが開発されてきたため、世界的な観光地となっており、島の貨幣経済は観光収入で成立していると言っても過言ではない。先進国に比べると物価水準がかなり低廉であるため、先進国の比較的若年層でも十分楽しめることも人気の一要素で、東南アジア各地のビーチリゾートのモデルとなっている。また、この島はサーフィンのメッカのひとつで、世界中のサーファーが集まる。住民の性格は温厚であり、また、インドネシア政府も観光収入を確保するため治安の維持に力を入れており、衛生面も観光客には問題のないレベルを保っている。